今月も・・・

まず映画。
『シン・ゴジラ』を観ようと、万博公園に隣接した、IMAXシアターにはじめて行きました。
ゴジラ映画を観るのもはじめてでした。その劇場には特大のスクリーンが設置されています。
ただいざ始まってみると、スクリーンそのものと比較するものがないので、
一般的な映画館との画面の大きさの違いは忘れてしまっていました。
人間の眼(めえ)というのは良くも悪くも状況に馴れてしまうものみたいです。
※だからスマートフォンの小さな画面でもそこそこ見(ら?)れる、のだと思います。
これ、いまこれは何万画素で見えてることになるんでしょうね?
本。
『クアトロ・ラガッツィ/天正少年使節と世界帝国(上・下)』若桑みどり(著)をようやく読みました。
去年の年末に届いたのを、2、30頁読んで放置。忘れたまたはじめから、を繰り返して、
負け癖みたいなのがついて、なんかもう飽きた、嫌になってきていたのですが、
――紙のシール剥がすの失敗した尻拭い、本体傷つけんように爪立てる感じの――
やわらか根気よく匍匐(ほふく)前進する感じでじりじりじりじりなんとか読み終えました。
そしたらなんかもう一丁長いのを読んだろう、ということで、
『ゴールドフィンチ』 ドナ・タート(著)岡真知子(訳)を読んでます。
3巻のだいたい半分、150頁といったところ。全体の65%あたりです。
主人公テオ「八方ふさがりはもうすぐそこ」の巻(まっき)といった展開です。
たぶんそういうの、ずるずるずるずる追い込まれるのが好き、
ではないにしろそういう性(さが)というか知らずと求めてしまう、
そんな性格なのかもしれません、まだこれまでのところは。
優柔不断、あるいはそうばれるのが怖くてあえて選択肢をどんどん増やして時間稼ぎをしたって、でもどっちかが選ばれへんねんから、選択肢が増えるほどにそんなんどんどこどんどこ選ばれへんようになりまっせ?
英語。
喋(ら?)れるように持っていこう、とほんまに思ってはいるのですが、
「副詞」とか「助動詞」とか、それらがなにを言うてはるのか、「副詞」の「名詞」というかそもそものルールごと掴めなくて、上滑りしていく格好、全ったく入って来ません。
あれは「副詞」とか「助動詞」は世界共通というか、一般的なあれなんでしょうか?
世界の言葉にある程度共通なんでしょうか?
長い戯曲やなんかの登場人物の名前、みたいにやっぱり把握しておかなあとあと困るのでしょうかどうでしょう?
そういえば、今朝、バスのなかで「あれっ?ハムレットの親友、親友?で墓堀の場で一緒やった人、あれ誰やったっけ?全っ然思い出されへん。
ローゼンクランツ&ギルデンスターンコンビばっかり出てくる。あとフォーティンブラスの鎧の青味がかった(ブラスのブがブルーのブを引っ張ってくるのだと思います)燻し銀のイメージしか出てこない。
肝心のその友達の名前が出てこない。セントバーナードみたいな名前やった気がするけど全然ちがう。
でもこれ絶対思い出そう!こういうの思い出されへんかったら神経(シナプス?)がぷちっと切れんねんで!って誰か言ってたからどうでも良いことやけど絶対に思い出すぞ!負けへんぞ!と孤軍奮闘(そりゃそうです)と悶々としてしばらくそれはホレイショーなのでした」とこういうのも文字にしなければ、頭のなかだけのことだと音もしないし外部にも(たぶん)変化はなくて、ましてこれが電気信号(?)の一瞬のことなのですから、これ人間の脳みそってどうなってるんでしょうね?いやいやおまえのあたまがどうなっとんねん?という小話でした。
本。
『サピエンス全史( 上) 文明の構造と人類の幸福(上・下)』 ユヴァル・ノア・ハラリ(著)柴田裕之(訳)
がもうすぐ明日、明後日くらいに届きそうです。
そのほか、この間の帰りのバスでのこと。回数カードを通そうにも詰まってるみたいで入りません。
機械の故障らしく、運転手さん(とこう、さん付けした方がなんか良い人っぽく映んねやろうなあどうせ、といつも思います)が次、また乗っていただいた時で結構ですよ!あぁ・・・そうですか?ありがとうございます、(と芝居にくるくる包(くる)まれて)いそいそ乗り込んだ、ということがありました。
はじめっから回数カードを使っていない人は普通に支払っているのですから、(顔なじみ、でもないけれどしょっちゅう同じバスになる人も当然乗っていました)やっぱり出すべきだった、ちょっと恥ずかしいような気がしたのですが、やはりそれでもラッキーが勝りました。
でもあれなんです。まえ、まえに同じようなことがあったときには、そのときにはちゃんと小銭で支払ったんです。これはほんとです。