池田住宅建設TOP > 終の棲家って?

「老後どんな風に生きたいか?」私の“終の棲家論"(ついのすみかろん)

暑いですね〜。皆さん、夏休みはお里帰りをされたり、逆にお子さんを迎えられたりして、にぎやかに過ごされましたか?
それとも、混みあう時期は何処にも出かけず家でゆっくりされましたでしょうか?

現在の我が家

私はゆっくり静かにお盆休みを過ごしました。
と言うのは、この春進学した息子が、学校近くに移り、先日は転勤になった娘がバタバタと引っ越していきました。

ついに、夫婦2人の暮らしが始まって(2人でスタートしたので“戻って”が正しいんでしょうか?)しまいました。数年前から想像はしていましたが、それでも“急に”と感じてしまうんですね。

食事など、最近は家族全員揃う事はめったに無かったので、今のところ“寂しい”という感じはまだありません。(そのうち、やってくるんでしょうが・・・)

寂しくはないんですが、「家が広い」んです
郊外に建つ我が家はもともと家族4人で暮らすにはゆったりしていたんですが、それが2人になってしまったので、やたら広く感じてしまいます。

「なんか2階要らんみたいやな・・・」「下の和室で寝る?」など、早くも18年機嫌よく暮らしてきた家との新しい付き合い方を考えるようになりました。数年前から、想像はしていた“夫婦2人の老後の暮らし”が現実になり始めました。

もちろん2人ともまだ働いていますし、“食欲旺盛過ぎる”至って元気な夫婦ですが、不思議な事に以前と何も変わらないのに“老後”や“終の棲家”という言葉が気になりだしたのです。

見学会やセミナーなどで、人生の先輩とお話する機会が多いんですが、その年齢や立場、状況で、色んなお考えがあるけれども、皆さん一様に、長くなった老後と積極的に向かい合う姿勢を感じます。

“終の棲家”とは、「老後どんな風に生きたいか?」を考える事なんだと教えていただきました。
そこで、この世代デビュー仕立ての私ですが、先輩の皆さんのご意見をいただきながら私の“終の棲家論"を考えていこうと思います。

最初はこのページに収まる内容を考えていたんですが、終の棲家を考えるには、1ページではとうてい足りない事に気付き数回に分けて書くことにしました。次回からいよいよ“私の終の棲家”を考えたいと思います。しばらくお付き合いください。


建売住宅を探し始めましたが、日に日に価格が・・・

前回から始まった私の考える“終の棲家論”ですが、早速、色んなご意見を頂きました。
30代で家づくり計画中の奥さんは、「家づくりって、今のことだけ考えたらダメなんですね〜」とか、私と同じ40 代の方は「うちも、もうすぐ子供達が独立します」など。

そして少し先輩、50代の女性は正に現在模索中のご様子で、「今の家を住みやすくするか、市街地駅近マンションかしらね−?」などなど・・・。

終の棲家”については、年齢を積み重ねた人も若い人も、男性も女性も、結婚してる人も独身の人も、みんな、人生の何処かで考えないといけない問題だから、反応してくださったんだなと改めて感じました。

さて、私は生まれも育ちも尼崎で、実家は工務店をしていました。ですから、倉庫や作業場、事務所部分を優先した店舗付き住宅に住んでいました。家業が工務店ですので、子供の成長に合わせて時々に手を入れていたので、暮らしやすい家で育ちました。只、子供って無い物ねだりなところがあり、事務所兼自宅ではなく“ごく普通の家”に憧れたりもしました。

一方、夫は転勤族の父を持ち神戸→尾鷲→奈良→神戸→大阪と引越し、大阪市内で購入した40年以上前にすでに“築30 年”という家で育ち、数年前まで義母が1人で暮らしていました。

2人とも便利なところで大きくなり、結婚後も伊丹の社宅、西宮の借り上げ社宅(マンション)、尼崎の借り上げ社宅(阪急武庫之荘駅に近い古いけどゆったりした平屋でした)と、便利なところで暮らしてきました。

そんな私達が家探しを始めたのが、昭和の終わり、ちょうどバブルの頃でした。あの頃は自分達が注文住宅を建てられるなんて夢にも思いませんでしたので、毎週、週末に入るチラシで建売住宅を必死になって探したのを思い出します。

私達が家探しを・・・と書きましたが、正確には“私が”になります。夫は正直、そんなに「家を持ちたい!!」とは思ってなかったようです。社宅に恵まれていたのが一番の理由ですが、やはり“住宅ローン”という「大きな借金を抱えたくない!!」というのも大きかったようです。

余談ですが、夫の父は借金が嫌いで貯金をして、現金で家を買ったそうです。昔の事とは言え、そんな家庭で育った夫と「借金は有って当たり前」という商売人の家で育った私とは、その辺にも温度差がありました。チラシを見て夢を膨らませる私と、その話を避けたい夫とよく喧嘩になったものです。

さて、住み慣れた阪神間で建売住宅を探し始めましたが、何せ、バブルの頃です。日に日に価格が・・・。


「この権利を手放すのは惜しい!!」気が・・・

住み慣れた阪神間での家探しが始まりました。インターネットも無い頃ですから、新聞のチラシを物色しては「コレ!!」と思う物件を、足取りの重い夫を引っ張って見に行きました。

でも、物件探しって難しく「安い!!」と思うと、道路事情が非常に悪かったり、敷地の形がとても変だったり「誰が見ても良い!!」という物件は、当然高く予算が折り合いませんでした。

一晩悩み、何とかなるかと電話をすると「もう決まりました」。高い物件でも右から左へ売れていたのがバブルの時代で、最近の地価の高騰を見ていると同じ動きをしているようですね。

3〜4年(熱心な時と少し飽き気味の波はありましたが)探したでしょうか、“新築一戸建”は無理かと“マンションや中古住宅”も見に行きました。その間にどんどん値段が上がり、同じ予算なのに、物件の条件や質がどんどん低下していくんです。

そうすると「早く買わないと・・・」という焦りが出て、あの時の私は『何でも買いたい気持ち』になっていて、なかなか首を縦に振らない夫を不満に思ったりしたものです。(内緒ですが・・・)

そんな中、「三田やったら安いんちゃう?」と公団の宅地販売に応募しましたが、皆考えることは同じらしく当時は“1,000 倍”を越す抽選倍率で簡単に当たるものではありませんでした。

でも、私たちの予算では、阪神間で『土地を買って注文建築の家を建てる』は無理でも、「三田なら出来るんちゃう?」というのが、“阪神間の便利さ”と引き換えに三田を選んだもう一つの理由です。

ですが結局、3〜4回は宅地を申し込みましたが補欠にも入らず、「同じ当たらないなら倍率の低い分譲住宅でも申し込んでみよか」と比較的うちの家族構成に間取りが合う物を選んで、申し込んだのが現在の家です。それでも確か“6 3 倍”だったと思います。

先日、やはり土地探し中のお客さんに「そこを決めた、決め手は何ですか?」と質問されました。一瞬考えましたが、『抽選でしょうか・・・』とお答えしました。

恋愛と同じように“一目ぼれ”で「絶対これ!!」という出会いもあるでしょうが、(中にはそんな方もいらっしゃいます)大抵の方は家探しでは(恋愛でも?)なかなか決め手を欠いて、決められないとおっしゃいます。

私たちも、「当たってから考えよう」と思っていたので、当たった時は、正直「どうする?」と思いましたが、ここで背中を押してくれたのが『63倍の抽選に当たった』という事実です。(笑)

「絶対これ!!」かどうかは別にして「この権利を手放すのは惜しい!!」気がしました。


購入を決めた私達が次に直面したのが「・・・お金どうする?」(笑)

数年に渡った家探しも公団の分譲住宅に当たった事で結末を迎えたんですが、振り返ってみると、“マイホーム取得に逸る私”と“少し引き気味の夫”は、調度良い組み合わせだったかとも思います。

2人で同じように「早く買いたい」と焦っていたら、どんな物件を買っていたかと怖くなります。
もちろん、決める時は決めないといけませんが、自分達に合っているかどうかは、冷静に見極めないといけませんから・・・。

さて、購入を決めた私達が次に直面したのが、「お金どうする?」(笑)でした。

もちろん、現金で払えるわけは無いので住宅ローンを借りないといけないんですが、「どうやって借りたらいいんやろう?」というレベルでした。

今は住宅ローンの種類も多く、各銀行によっては金利にも差が有るので、借り方によって結構差が出るので、皆さん、より有利な住宅ローンを組もうと熱心に勉強されています。

でも当時は、インターネットという便利な物も無く、情報を得にくかったし、住宅ローン自体も各銀行が横並びでしたので、何処で借りても同じ時代でした。

で、私はお給料の振込みがされている近所の銀行へ、ベビーカーを押して行って、「家、買いたいので、お金貸して下さい!!」(笑)と申し出ました。

スタッフにこの話をすると「えっ…」と驚かれましたが、銀行の方も驚いただろうと思います。
若いお母さんが、つっかけ履きで、数千万の借金を申し込んだんですから・・・。

因みに、その時、我が家が借りた住宅ローンの金利は6%代。変動です。(変動も固定も知らなかったんですが・・・)低金利に慣れた今では考えられない数字です。

初めての事だらけで戸惑いの連続でしたが、ようやく契約・決済を済ませ“念願のマイホーム”を手に入れました。

娘の幼稚園が夏休みに入るのを待って、喜び勇んで引越しをしました。
手伝いに来てくれた親戚と三田市街で外食をし、家族だけでニュータウンへ帰って来た時です。

「うわっ、真っ暗!!!」「なんでこんなに暗いの・・・?」

「街灯無い!!!」「えらい所に来てしもたー!!!」家探し、間違った???


街灯の無い真っ暗なニュータウンでの初日は、「えらいとこ来た・・・」

街灯の無い真っ暗なニュータウンでの初日は、「えらいとこ来た・・・」とかなり気の萎える夜でした。でも、「おほしさま!!」と言う子供の声に空を見上げ、「わぁー、きれーい!!」と少し気を取り直した(現金です!!)のが、昨日のようです。

その後、街灯が初めて灯った夜の散歩では、コオロギの大群が顔にバンバン当たる経験もしました。暗い中で平穏に暮らしていたのに、いきなり明るくなって戸惑っていたんでしょうね。ちょっと複雑な気がしました。

もう一つびっくりしたのが、都会と田舎(三田の方ごめんなさい。)の時間の流れ方の違いです。せっかちな私は、何処へ行っても対応が遅いのでよく怒っていました。今となってはすっかり馴染み、たまに梅田辺りへ出かけるととても疲れてしまいますが・・・。

図書館

逆に地元の方に怒られた事もあります。それまで無かった図書館が出来た時、ニュータウンの住民が「駐車場が少ない」とか「本の数が少ない」等と言うと「都会から来た人は何でも有って当たり前。無い経験をしてないから、感謝が無い!!」・・・返す言葉がありませんでした

そんな郊外暮らしもあっと言う間に18年が経ちました。
「何が良かったかな?」と考えると、“親離れ”が出来たことでしょうか。引越し前は私の実家近くに住んでいたので、私はもちろん、夫も実家に依存していました。

私が寝込んだ時など、「僕のご飯は心配せんでいいよ。」・・・って「私と子供のご飯は?」という感じだったんですが、引越し後は、スーパーへ買い物に行ってくれるようになりました。

電話1本で飛んできてくれる“じいじとばあば”がそばに居なくなったんですから・・・。
自分達で何事も解決しなければいけないと、遅まきながら気付いたようなわけです。

今、30代のご家族と打ち合わせをしていて、実家が遠い方など、ご夫婦でよく頑張っていらっしゃるなと感心させられます。そんなお父さん、お母さんには「 疲れ過ぎない程度にガンバレ!!」とエールを送りたいです。

又、子育てをする環境としてはとても良かったと思います。阪神間では、交通量が多く近所に子供も居なかったので、1人で家から出すことも無かったんですが、引越し後は、同世代の移住組みが多いため子供がいっぱい、公園も多いので、“遊ぶ”という事には恵まれていました。

又、永住目的で引っ越された方が多いので、幼稚園から小学校・中学・高校とずっと一緒の友達が多く、今は成人した子供たちが遊んでいる友達は、幼稚園から見知った顔が多くあります。


長くなった老後と積極的に向き合おう!!

前回、ニュータウンには永住目的で引っ越してきた人が多いので、子供達が長く付き合える友達に恵まれた事を書きました。私のように、30代で越してきた人達は転勤など余程の事情が無い限り、確かに長く暮らしていらっしゃいます。

でも、周りを見るとリタイアされるかされないか、調度これからの私の年齢ぐらいの時、ご夫婦二人で越されてきた方には、又、引っ越して行かれた方も多いようです。

多分その方たちは、今私が思い迷うようにご自分達の“終の棲家”を郊外に求めて来られたんだろうと思います。でも、年数を経て、車の運転が厳しくなったり、どちらかが病気になったり、亡くなられたり、と色々な状況で住み続ける事が難しくなるようです。

毎日ご夫婦で庭に立ち、季節毎に様々な花を咲かせ、道を行く私たちを楽しませてくれた方が引っ越され、お庭がつぶされた時はとても寂しかったです。

広辞苑で“終の棲家”を引くと「終生住んでいるべきところ。また、最後に住む所。死後に落ち着く所。」とあります。
でも、核家族化が進み、介護をする家族が回りにいなかったり、いても仕事などで難しかったりする現代では、ほとんどの方が、最期は、施設か病院で迎えるんだと思います。

義母も、何度となく持ち上がった同居の話にも、長年住み慣れた家を離れる事に抵抗があったのと、「子供に迷惑を掛けたくない。」と首を縦に振りませんでした。
今は、認知症が進んだため施設でお世話になっています。

私が今、描いている“終の棲家”は、本当に最期を迎えるまでの穏やかで静かな時間のための場所ではなく、“子育てや仕事が終り、体力的にも精神的にも元気で、忙しかった頃に出来なかった事を積極的にするため、自分らしく生きるため、数年か数十年か(これが判らないのが難しい)を暮すための拠点”のような場所なのかなと思っています。

私と同世代や、少し先輩の人達とお話すると、同じ捕えかたをしてらっしゃる感じがします。
それは、以前も書きましたが、長くなった老後と積極的に向き合おうという姿勢だと思います。

永住目的で子供を連れてニュータウンに引越されてきた中にも、子供の独立、退職を期にニュータウンを後にされる方も出てきました。

「やはり便利な都会に戻るわ!!」と市街地に戻っていかれる方、「お父さん(ご主人)が生まれ故郷の家に帰りたいっていってるの・・・」と故郷に戻られる方、そして、「もっと田舎で、農業をしたいの。」と本当の田舎暮らしを選択される方。選択肢は色々あるようです


都会だったら、あり得ない!

私の思い描いている暮らし方は、“終の棲家”のなかでも「ステップ1」というか、長くなった老後生活の“序章”部分なのかな?と前回書きました。退職を迎え、様々な選択をして、そんな生活に入っていく方が周りに増えてきました。

私の両親は現在、瀬戸内の小さな島に暮らしています。祖母の介護が動機となって、父の故郷へ二人して移っていきました。介護が目的で、積極的にリタイア後を楽しもうという理由ではありませんでしたが、色々なしがらみが有るのもこの世代ですから…。

生まれ故郷に帰った父は、幼馴染や親戚が多くイキイキしていましたが、デパート大好きな母は、娘の目から見ると少し“寂しそう”でした。

私なら「夫についていけるかな…?」。都会育ちの夫に「田舎が無くて良かった〜」と内心思ったりしました。実は、私、“田舎”が好きではありませんでした

最近でこそ田舎でも鍵をかけますが、私が子供の頃は、ご近所皆さん開けっ放しで、夏休みなどに帰省すると、知らんおっちゃん、おばちゃん、おじいちゃん、おばあちゃんが、人なつこそうな顔で茶の間にいたりして、それが何とも落ち着かなくてイヤでした。

最初の頃は、よく電話をかけてきた母でしたが、誘ってくれる友達も出来、少しずつ馴染んでいる様子が伝わってホッとしかけた頃、父が心臓のバイパス手術を受けました。

田舎暮らしで「何が心配?」って、やはり病気じゃないでしょうか?
父の場合も、家から車で1時間半の国立病院に入院しました。子供達が交代で手術時などは行きましたが、入院生活はやはり母の肩に掛かってきます。

幸い祖母は近くの施設でショートステイが出来ましたが、母は運転免許を持っていません。バスと電車を乗り継いで、2時間以上かかって病院通いをしなければなりませんでした。

そんな時、ご近所の方が「今日は私が乗せてってあげる」「明日は、近くに用事があるから帰りに拾ってあげる」と次々に申し出てくれたそうです。

都会だったら、あり得ない!」と思います。知らない土地での父の手術、心細い母をご近所で支えてくれました。「田舎もいいかな〜?」と素直に思えました。

もちろん「いざという時に助け合える」―「深い人間関係が求められる」ですから、面倒臭い事もたくさんあるはずですが、日頃は楽な「挨拶程度の関係」が、少し不安で寂しい気がしてくるのも「いざ」の可能性が若い時よりも増えてくるからなんでしょうね…。


田舎・都会に関係なく、関わりの度合いを決めるのは自分自身なんだろうな

田舎暮らしの両親が、ご近所の皆さんに助けられて、無事父の入院生活を乗り切った話を書きましたが、現在、施設でお世話になっている義母も、認知症が出始めた頃よく「最近はご近所同士で、通りへ出て話さへんようになった」と寂しそうに言っていました。

母は、大阪市内で一人暮らしをしていましたが、父が亡くなった後の寂しく手持ち無沙汰な時期を埋めてくれていたのが、ご近所の皆さんとの他愛ない話だったんじゃないかと思います。

もちろん、離れて暮らす子供達や友人、親戚もその役を担っていたとは思いますが、玄関を1歩出るだけで、色んな話の出来るご近所さんは得難いものだったようです。

母は今年92才で平均寿命と比べても長寿と言えます。そんな母がよく「長生きも寂しい」と言っていました。それは同世代のご近所さんや学校時代からの友人など“同じ時代を共有した”“同じ思い出を語り合える”人を順に失う事にあった気がします。これは、子供達がいくら、がんばっても埋められないものだと思います。

前回、私はご近所との関わりを田舎独特の物のように書きましたが、よく考えると母の住んでいた大阪市内にもご近所との関わりはあったようですし、同じく大阪市内に住む義姉などは、商家に嫁いだせいもあるかと思いますが、町内会や婦人会など結構ディープな関わりを持っているようです。

さて少し話は変りますが、三田のニュータウンに引っ越して娘を小学校に入れたときに、元々三田にお住まいの校長先生、教頭先生がよく「子供は地域で育てるもの」と仰っていました。

「ご近所のおっちゃん、おばちゃん皆が見てると思ったら、子供は悪さなんか出来ない」という事でしたが、当時私も含めお母さん達は「そんな古臭いこと・・・」と口々に言い合いました。

でも、最近の子供が犠牲になる事件の多発を見ていると、今更ですが、あの時の先生の言葉が甦ります。古い町や田舎のように、何代にも渡ってそこに住んできた人のいないニュータウンでは、当初どうしてもそういう意識は薄かったと思います。

只、ニュータウンも少しずつ歴史が出来てきたことに反映されてか、“町ぐるみで”という風潮が出てきているように思います。

毎朝、小学校の登校時にパトロールに立ってくださる方の顔は、私が越してきた当時40台の働き盛りだった方が多く、「〜さんも定年を迎えはってんなぁ」と思ったりします。

最近になって私も、地域との関わりは子供だけでなくリタイア世代にも重要な事なんだろうなと思うようになりました。又それは、田舎・都会に関係なく、関わりの度合いを決めるのは自分自身なんだろうなと思ったりしています。


“脱”ものぐさ

前回、時代や思い出を共有できる友人を順に失った義母がとても寂しそうだったと書きました。
時代を共有するということは、「同じ言葉が話せる」ということじゃないかと最近よく思います。

うちの事務所では私が最年長で40代後半。先月入社した藤田さんは私の娘と1才違いです。藤田さんまでいかなくても、他のスタッフも30代前半が多く、私が何気なく発する単語に彼らの顔が「???」となることはよくあります。

もちろん彼らの発する単語に私が「???」となることも多々あります。ジェネレーションギャップです。会話って、テンポ良くキャッチボール出来ると弾みますが、そこで、お互いに言葉の説明をしていると何を話したかったのか忘れてしまいますよね。

事務所内では、建築に関する共通語がありますから特に問題はありませんが、他愛ない話をするプライベートな時間では、「言葉が通じる」はとても大きく、家に帰って夫や友人と話すと、やはりホッとします。

長くなった老後を豊かに暮らすためには、そんな言葉の通じる友人がいる事はとても大事なようで、それが近くにいてくれればもっとうれしいです。それを考えると地域との関わりは大きなポイントになりそうです。

ご近所に住むリタイア世代の方々も、活き活きしてらっしゃる方ほど、ボランティアやサークル活動などに積極的に関わっていらっしゃるように見えます。でも私、結構これが苦手なんです

子育て中は子供を通してのつながりが有りました。でもそれを卒業して働いている今は、世の中のお父さん方と一緒で会社と家の往復ばかり、休みの日もたまった家事を片付けたり、遊びに出かけてしまい、ご近所の方と触れ合う機会がありません

いえ、むしろ時間が無いのを言い訳に、面倒と避けているところが有ります。でもこのままでは、仕事を辞めて地域へ戻った時、話をする人がいなくなってしまいそうです

この文章を書くようになって、周りのリタイア世代の方、もっと上の方など人生の先輩を注意深く観察させていただくようになりました。

今、お打合せをしているSさんは私の母親世代。とても活動的で、いろんな所にどんどん出かけていらっしゃるようですし、いつも綺麗におしゃれを楽しんでいらっしゃいます。とてもステキな方です。

このSさんにお会いすると、若い私の方が元気を頂いてしまいます。面倒臭がりな私など、とてもあんな年の重ね方は出来そうにありません。まずは、“脱”ものぐさで、少し面倒な事と向き合おうと思ったりしています。


リタイア後に熱心になれる事が有るって、とてもうらやましい!!

前回、“脱”ものぐさ宣言をしましたが、私がリタイアする前にもう一つ取り組まなければいけないと思っているのが、“趣味”です。

夫は、先日“還暦”を迎えました。幸か不幸か60才定年ではない仕事なのと、まだ学費の要る子供がいますので、もう少し働いてもらわなければいけませんが・・・。

でも、数年前から、学生時代に熱心にやっていたらしいクラシックギターを本格的に始めました 。毎年12月の第一土曜日は、ギター部の先輩や仲間達とお昼過ぎから集まって、忘年会兼、同窓会兼、発表会を、延々夜7時、8時までしています。

当然、皆さん定年を迎えていらしたり、再就職をされていても、30代・40代よりは時間があるので、1年間熱心に練習をして発表されるようです。

普段は、ものぐさな夫も、ギターの練習だけは1時間、2時間と集中しています。昔の自分の力量を知っている人達の集まりですから余計熱心になるようです。

毎年、退社時間を合わせて迎えに行きますが、皆さん10代後半から20代前半を共有していた仲間同士、ギターにかける情熱と志、そして表情は青年になっているようです。

駅まで数人をお送りする車中、「練習すればまだ、上手になれるんでうれしいです。」 等と口々に話されるのを聞いていると、軽いジェラシーを感じてしまいます。

リタイア後に熱心になれる事が有るって、とてもうらやましい!!

さて、私の趣味は何だろう?
昔、履歴書には“読書”なんて書いたけど熱心な読書家でもないし、音楽を聞き込むってわけでもないし、もちろん楽器は40年近く前にバイエルで挫折してるし・・・。ダンスは体、硬いし、スポーツも、決して運動神経が良いとは言えない・・・ 。

そうなんです。これと言った趣味が無いんです。
夫のように若い時に熱心にやっていた事があれば、取っ掛かり易いと思いますが、それも無い。

今はまだ毎日バタバタと忙しくしていますが、リタイア後はきっと時間がたっぷりあるに違いない。その時間の使い方が、老後を楽しいと感じられるか どうかに、掛かってくると思うん です。

何か、楽しんで出来る事を見つけたいのです。でも急には見つからないだろうし、何かを始めてみなければと思いながら、これも“忙しい”を理由に先 延ばし中です。

どなたか、「私はこんな趣味を見つけました。」と体験談をお聞かせ願えませんか?


普通と思っていたことが、少し視点を変えると改めて好きと思ったり幸せと思えるという事でしょうか

数回に渡って、私がリタイア後にイキイキ暮らすために、取り組みたいと思っている事を書きました。さて、じゃあ、何処でそれをするのか?

以前も書きましたが、私はずっと都会志向でした。子供を育てるのに適していると思って移った三田ですが、年を取ったら大阪や神戸等、都会の駅前マンションで暮らしたいと憧れていました。

理由は、ズバリ利便性です。公共交通機関が充実しているので、展覧会やコンサートにも出かけ易いし、料理もお酒も美味しいお店が沢山あって、都会はなんとも魅力的です。

2年前、その疑似体験をする機会がありました。梅田のホテルの 32 階に泊まったんですが、最初はネオンが瞬く夜景が綺麗でうっとりしていました。でも1時間もすると段々、動きが止まって単調に見えてきました。それに音がしないんです。時折、聞こえる救急車のサイレン以外は…

密閉されたホテルですから、バルコニー等があって、空気を感じられるマンションとは違っているとは思いますが…。(高所恐怖症としては、それはそれで又怖いですが…)

鶯の鳴き声に春を感じたり、月を見上げながらお酒を飲んだり、寒くても庭で星座を探したりと、生活の中で季節を感じられる、今住んでいる三田の環境が好きなんだと、その時気付きました。

それ以来、私の都会熱は少し冷めました。当分は、今のまま暮らしていきたいなと思っています。

でも、この選択は大抵の人が思われる、“長年暮らした環境が一番落ち着いて好き!!”という事かなと思ったりします。私が三田で落ち着くように、大阪や神戸の市街地が住み慣れて落ち着くという方も、逆に不便でももっと田舎な方が良いという方もいらっしゃるんでしょう。

青い鳥ではありませんが、普通と思っていたことが、少し視点を変えると改めて好きと思ったり幸せと思えるという事でしょうか。

でも、もちろん不安要素もあります。「近くて遠いは田舎の道」は本当だと三田に来てから知りました。渋滞が無いのでスイスイと車で出かけますが、距離にしたら結構あることが多く、車の運転に自信が無くなったらどうしよう。

あんなに車の運転が好きだった父(74才)も、最近は運転が怖いとよく言い、なるべく乗らないようにしているようです。日常の買い物や病院など色々困ることが有ると思います。

ですから、“ずっとここで暮らす”ではなく“今の生活を楽しめる間はここで暮らす”“困ることが出てきたらその時に考えよう”今はそんな風に思っています。


私の終の棲家(ついのすみか)論 最終回

私の終の棲家(ついのすみか)論 その12

子供の独立から老後という言葉を感じ、書き始め、1年続いた終の棲家論も最終回を迎えました。

ご近所の奥さんは、先日ご主人の単身赴任先へ旅立たれました。「5年間も単身赴任なのにどうして?」と聞くと、2年後に迎えるご主人の「定年後は長い時間を一緒に過さないといけないから練習しに行くの。」との事。

3年前に定年を迎えられたお向かいのご主人は、「シルバー人材センターに登録して、いい汗かいてます。」と先日庭でビールをご一緒した時に笑顔で仰っていました。自治会でも活躍されてます。

私も、当面は今住んでいる三田で、リタイア後を見据えて積極的に楽しみながら暮らしていきたいと思っていますが、その家は、2階建ての分譲住宅です。

将来を考えたらワンフロアーで生活の全てがまかなえる、平屋建てにしたいと思い描いています。
もちろん、経済的な事を考えると夢の又夢ですが、もし自分の思い通りに“夢の平屋”を建てられるならぜひこんな家にと思い温めているプランを最後に披露させてください。

但し、温熱環境に力を入れている池田住宅としては、「こんな家、うちでは建てられへんから、よその工務店、紹介しよか。」と池田に言われそうなプランですが…。(笑)
長い間、お付き合いいただいてありがとうございました。

(横山)

夢の平屋


池田住宅建設TOP > 終の棲家って?